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JAXA宇宙飛行士によるISS長期滞在

若田光一宇宙飛行士
公開日:2013年10月29日

若田光一宇宙飛行士 プロフィールダイジェスト

若田光一宇宙飛行士は、1963年、埼玉県大宮市(現在のさいたま市)に生まれた。

宇宙へのあこがれが芽生えたのは5歳の時だ。1969年7月20日、アポロ11号の月面着陸のテレビ中継を見ながら、宇宙で人間が活動していること、宇宙飛行士という仕事があることに強い興味を持った。しかし当時、宇宙に行くことができるのはアメリカや、旧ソ連の宇宙飛行士だけ。自分には手の届かない世界だと思っていた。

若田少年が当時、夢中になっていたのは飛行機だった。両親が九州の出身であり、年に1回は里帰りのため飛行機に乗った。ある時、着陸後のコックピットをパイロットが若田少年に見せてくれたことがあった。様々な装置やたくさんのスイッチが青や青の光で点滅し宝石箱のようにキラキラと輝き、若田少年の心に強烈な印象を残したのだ。

次第に自分でも、紙飛行機やエンジン付きのUコン飛行機を作り、飛ばすようになる。墜落させ壊しては、また修理する。どうしたらうまく飛ぶのか試行錯誤を重ねていった。

中学生の頃には将来の目標として航空機のエンジニアを目指すようになる。理科系の勉強や英語にも力を入れる。また高校時代は野球部に入り、猛練習。なかなかレギュラーメンバーになれなかったが野球を通じて先を読む洞察力や集中力、チームワークを学んだ。

高校卒業後は九州大学工学部航空工学科に入学。航空機について学びながら、仲間と人力飛行機を作り「鳥人間コンテスト」にも参加。 そんな充実した大学生活を送っていた1985年、若田青年にとって衝撃的な出来事が起こる。旅客機が群馬県の御巣鷹山に墜落、520人もの尊い命が奪われた。「飛行機を安全に飛ばすために貢献したい」。そう考えた若田青年は大学院に進学、終了後の1989年に航空会社に入社し、整備技術者として仕事を始めたのだ。

宇宙飛行士への挑戦

1991年8月、28歳の時、通勤電車の車内で「宇宙飛行士候補者募集」の記事を見つける。子どもの頃に見たアポロ月面着陸を見た感動が蘇る。航空機エンジニアの仕事には大きなやりがいを感じていたものの、宇宙飛行士に挑戦するチャンスであり、技術者としての経験を生かして人類全体に貢献できる。宇宙飛行士の選抜がどんな風に行われるのかを見てみたいという好奇心もあり応募を決意。1992年4月には宇宙飛行士候補者に選ばれる。

1992年8月にはNASAが実施する第14期宇宙飛行士候補者養成クラスに参加する。NASAの長年の有人宇宙飛行の経験と知識が凝縮されたこのクラスは過去、外国人にはほとんど門戸が開かれていない。日本人初の参加となった。

若田候補者がまず直面したのは英語。たとえばスペースシャトル発射のシミュレーション訓練で使われる独特の英語が理解できない。また航空機を操縦した経験もないのに、超音速も出せるジェット機で操縦桿を握る。だが同乗するパイロットや管制官が何を言っているか理解できない。そこでジェット練習機操縦中の会話を録音して聞くことにした。また仲間のシミュレーター訓練にも立ち会わせてもらうなどして、休日返上で猛勉強。1年近く立った頃、会話が聞き取れるようになると、訓練が楽しくてたまらなくなる。1993年8月、日本人初のNASAミッションスペシャリスト(搭乗運用技術者)に任命された。

2回のスペースシャトルミッションで卓越したロボットアーム操作を見せる

1996年1月、STS-72ミッションに日本人初のミッションスペシャリストとして搭乗。

新人宇宙飛行士ながら、ロボットアームで日本と米国の2つの人工衛星の回収と放出という難しい操作を任され、成功に導く。

その卓越したロボットアーム操作が評価され、国際宇宙ステーション(ISS)の建設ミッションSTS-92に任命される。日本人で初めてISSの建設に参加。ところが打ち上げ後、通信装置や電気回路のショートなどのトラブルが続出。ロボットアーム操作で使う予定だったテレビカメラの一部が使えなくなったものの、若田飛行士は見事に操作しドッキング作業を成功させる。「The Man (男の中の男)」と地上管制チームからも絶賛の声があがった。

帰還後の2000年12月から、若田飛行士はNASAロボティクス教官宇宙飛行士に認定され、NASA宇宙飛行士のロボットアーム操作を訓練、評価する立場になる。

ISS長期滞在を目指して

若田飛行士らが宇宙飛行から帰還した1週間後、米ロの宇宙飛行士がISSへの初の長期滞在に向かった。いよいよ宇宙で暮らし仕事をする時代が始まったのだ。

NASAはISS長期滞在宇宙飛行士に対してリーダーシップやフォロワシップ、チームワークを鍛えるための「探検隊行動規範訓練」を行っている。その一つであるNOLS訓練は山や海など厳しいストレス環境下で行われる。若田飛行士はNOLS訓練に3回参加、1回目は2001年8月、標高約4000mの山頂を目指し、2006年2月には雪嵐の中での登山を通じて状況判断やチームワークを磨いた。

また「宇宙飛行のリハーサル」と呼ばれる海底での訓練、NASA極限環境運用(NEEMO)では2006年、第10回NEEMOミッションでコマンダーの役割を任されている。若田飛行士はコマンダーとして、準備段階でメンバーの仕事の割り振りや訓練計画の立案、本番では分刻みのスケジュールを管制室とやり取りしながら率い、「船長の素質あり」とNASAに評価されている。

シャトル飛行再開のためNASA宇宙飛行士室代表として装置開発を牽引

ISSでの長期滞在を目指して訓練に励む若田飛行士たちにとって、試練の時が訪れる。2003年2月1日、スペースシャトル・コロンビア号が着陸を16分後に控え、空中分解、7人の宇宙飛行士同僚の命が失われたのだ。コロンビア号の次は野口聡一宇宙飛行士が宇宙に飛び立つ予定だった。

若田飛行士も「なぜ宇宙に行くか」を自問自答、家族とも話し合いを重ねた。熟考の末「リスク以上に人類が宇宙から受ける恩恵が大きい」と飛行再開に貢献する意志を固める。

スペースシャトルが飛行再開するための条件に、事故の原因となったシャトル熱防護システムを、軌道上で損傷がないか検査するロボットアームシステム(OBSS)の開発があった。その開発に、若田飛行士はNASA宇宙飛行士室代表として抜擢される。低予算・短期間の開発を成功に導き2005年7月、スペースシャトルは飛行再開。OBSSはその後一度もトラブルを起こさず機能した。

 

2009年3月~7月、初のISS長期滞在

2008年、ISSに土井隆雄、星出彰彦宇宙飛行士らによって「きぼう」日本実験棟の船内保管室、船内実験室が取り付けられる。若田飛行士は2009年3月にISSに向かい、太陽電池パドルの取り付けと展開を行い、宇宙飛行士6人体制に必要な電力を供給する準備を整える。7月には「きぼう」日本実験棟の船外実験プラットフォームを取り付け、「きぼう」を完成させた。約4ヶ月半の宇宙滞在を行った後、地上に帰還。ISS長期滞在後の宇宙飛行士は、宇宙の無重量環境で暮らす間に筋肉や骨量が減少しているため、安全のために帰還後すぐの記者会見には通常出席しない。だが若田飛行士は歩いて会見に出席した。骨量減少の対策として投薬やトレーニングを行った日本の実験の効果を世界にアピールした。

コマンダーを目指して

2010年3月、若田飛行士はNASA宇宙飛行士室ISS運用部門のチーフに任命される。NASAの管理職を務めるのは日本人で初めてだ。部下は約30人。ISS長期滞在宇宙飛行士の訓練や長期滞在を支える世界各国のさまざまな担当者との交渉や調整を行い、ISSに搭乗する宇宙飛行士の業務全体を支援するという仕事だった。

管理職として、関係者から次々に挙がってくる様々な問題を迅速に解決していく難しい仕事だったが、巨大チーム全体の枠組みと動きを把握し、時間の制約の中で仕事の優先順位をつけながら、問題解決の手法を学んでいったという。

そして2011年2月、38/39次長期滞在にアサイン、39次ではコマンダーを任命される。

 
 
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