宇宙連詩 みんなで紡ごう、宇宙に流れる生命のメッセージ

言葉をめぐるエッセイ

『命名のファンタスム』

野村喜和夫




 詩を書き始めてもう長い年月が経つ。最近はさらにそれに拍車がかかって、狂い咲きとか量産しすぎるとか言われることもあるくらい、書きまくっている。でもまあ書けなくなってしまうよりはましだろうと半ば開き直ってはいるのだが、それにつけても、いったい詩作の根本動機というものは何なのだろうと考えてみることがある。もちろん答えは出ない。答えが出てしまったら、そこでもう詩を書く必要はなくなってしまうだろうからだ。

 それでも、思いあたるふしがないわけではない。最近、「命名論」というタイトルで詩を書いた。荒涼とした大地を縫ってつづく「名無しの街道」を、「私」と「私の影」に探訪させながら、あらためて名前のあるなしの不思議を浮かび上がらせようという詩だが、そういえば子供の頃から、名づけるという行為が好きだったと思い出されるのである。競馬をみては勝手に命名した馬たちから成るレースを夢想し、相撲をみては勝手に命名した力士たちの取組表を作り上げた。またたとえば地図をみるのが好きで、とりわけ地名に惹かれたのだろう、そのうちにみずから架空の土地の地図を描くようになって、その最大の楽しみのひとつが、最後に架空の地名を書き入れることなのだった。意識的に詩を書き始めるようになったのはそれからずっとあと、大学生になってからのことだが、時間差のあるこのふたつの行為のあいだにはしかし、何かしら強い連続性があるようにも思われるのである。

 命名は固有名詞と深い関係がある。早い話が、生まれてきた自分の子供に名前をつけるというのが、すでにして立派な命名行為だ。あるものを名づけるというのは、それに固有名詞を与えることであって、ある女をみて「女」と呼んでも、それはその女を名づけたことにはならない。差異の網の目から成る言語システムを呼び起こしただけだ。「女」という言葉はそれを取り巻く「男」や「こども」との相互関係のなかでのみ価値をもつ否定的な関係体であり、それ自体で自律的に存在することのできないシステム内の一辞項にすぎない。ところが、固有名詞というのは、言語システムの内部にありながら、同時にその外部へとみずからを反転させうる力がある。なぜなら、固有名詞は意味の媒介なしに直接指示対象に結びつく。シニフィエとシニフィアンでいうなら、シニフィエなきシニフィアンであり、そのために、あたかも記号ではなく事物にちかく、否定的な関係体という言葉の限界を逃れているような印象を与えるのである。

 ふと思い起こされるのは、プルーストのあの『失われた時を求めて』のなかで、話者がまるで欲望の対象を呼び寄せるように、架空の土地バルベックまでの駅名を嬉嬉として数え上げる場面とか、あるいはがらりと趣は変わるが、かつてレヴィ=ストロースが報告した南米ナンビクワラ族の、個人をその固有の名で呼ぶことが禁じられていたという不思議な風習とかだ。どうやら固有名詞は、蠱惑と禁忌という両義性を帯びるものらしい。また、一般に固有名詞は翻訳できない。たとえば「今日子」は英語に行ってもフランス語に行っても「今日子」のままである。言い換えれば、「今日子」は「今日子」のまま、ひとつのシステムから他のシステムへ、自由に旅してゆくのである。そういえば大岡信も、名詩「地名論」のなかでうたっている──


土地の名前はたぶん
光でできている
外国なまりがベニスといえば
しらみの混ったベッドの下で
暗い水が囁くだけだが
おお ヴェネーツィア
故郷を離れた赤毛の娘が
叫べば みよ
広場の石に光があふれ
風は鳩を受胎する


 ここに命名のファンタスムとでも呼ぶべきことが起こるのだ。名づけるというのは、言葉に言葉以上の力で事物にはたらきかけさせることだ、というような。言語システムがなければたしかにわれわれはいわばむきだしの事物の世界と向き合うことになり、それはそれで耐えられないであろうが、逆に言語システムだけでは事物との生き生きとした交流や融合は果たせないのではないかという不充足も生じる。このときもしも事物に固有名詞を与えるならば、事物は生気を帯びて、まるで生命体のように輝き出すかもしれない。それこそ「風は鳩を受胎する」かもしれない。一種のアニミズムでもあろうか。あるいは言霊思想? だが私は、われわれの脳の古い部分には、そのようにして世界を名づけたかもしれぬ太古の先祖の記憶が眠っていて、それが命名のファンタスムとなって甦ることもあるのだと思いたい。「女」という言葉も最初は固有名詞だったのではないかということだ。そうして詩人の行為とは、つまりは「女」という言葉をそのありうべからざる固有名詞の状態にまで戻すことではないか。

 私のかりそめの結論はこうだ──詩と固有名詞は似ている。もちろん詩といえども、ほかの言説と同じように、大部分は普通の言葉、システム内の辞項にすぎない言葉で書かれる。私が言いたいのは、そのようにして示されるテクストの全体が、詩の場合はいわばひとつの固有名詞なのではないかということなのである。意味の不在(それゆえにまた別様な意味生成の核ともなりうる)、事物との近接、翻訳不可能性──固有名詞をめぐるそうした特徴は、そのまま詩にもあてはまるのではないかということである。

 かたい話になってしまった。最後に、自作を引用するのは気が引けるけれど、これも最近、縷々述べてきたような命名のファンタスムをテーマにした「(雨)」という短い詩を書いたので、ここに紹介しておきたい。


名づけるとは
むかし雨という
柔らかな女神の行列がそうしたように
寺院や魚や
大地や草を
はこべやははこぐさを
うっすらと濡らすこと
乾いてきたら
また名づけ直さなければならない
われわれというありかたが
雨なのだ
投げ網のように柔らかく降りかかる



 詩にくわしい人ならピンと来ただろう、この私の拙い詩は、西脇順三郎の名詩「雨」を本歌取りのようにふまえている。雨のまえのかわききった風景は言語システムに蔽われたわれわれのこの普通の世界のことなのかもしれず、名づけという名の雨はその世界をみずみずしい初源の状態の再来へと「うっすらと」更新するのである。





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