皆さんこんにちは!
今回は、前回に引き続き、私がテストパイロットになるまでの経緯について書かせて頂きます。実は、この内容は、以前私がロシア語で書いた自伝とほぼ同じ内容です。ロシア語でこれを書き上げた時のロシア語の先生のコメントは「あなたの恋愛の話が入ってないわね。まあ、その件は次の時に教えてね。」でした(笑)。宙亀日記でも、恋愛の事を書く時がくるのかな~?まあ、書いたとしても、恋愛の経験が少ないのであっという間に終わってしまうと思いますが…
さて、話を元に戻しましょう。
自分の希望と反して、米国に行くことになった時「私は何故、自分の意思に反して、いつも厳しい道を選ぶ事になってしまうのだろう…」と思いました。ただ、一度決まってしまったものは仕方ありません。一生懸命、英語の勉強を開始します。日本で約2ヶ月間英語を勉強した後、渡米しました。2ヶ月間の勉強で、不自由なく英語が話せるかと言ったら大間違い!米国到着後、ハンバーガーを買おうとしても買えない(涙)…という状況で米国の生活が始まりました。この状況で、米国内の語学学校に行ったのですが、当時は飛行訓練開始迄の語学訓練期間が、2ヶ月間しかありませんでした。語学を学ぶという面では、2ヶ月間はとても短いのですが、その他の面ではとても有意義な期間でした。何と、週末の研修で、ジョンソン・宇宙センターを訪れる機会があったのです!小さい頃から宇宙への憧れを持っていた私にとっては、すべてが興味深く、英語が分からないなりにも、一生懸命見学したのを覚えています。特に印象に残ったのは、サターンロケットの巨大さと、自分が生まれる前に既にアメリカは人を月に送っていたという事実。そこから、アメリカの国力を実感し、将来決してこの国と戦ってはならないと思うようになりました(自衛官でしたから、安全保障の事もよく考えていたんですよ)。
米国での語学訓練の2ヶ月は、あっと言う間に終わり、T-38での飛行訓練が開始されました。訓練では本当に英語能力の低さで苦労しましたよ!一例を挙げます。管制官との交信の際に、相手の言っている事がわからない場合「Say again.(もう一度言ってください)」という用語を使用します。ある日、私は一人でT-38に乗り(ソロ飛行訓練)訓練エリアに向かいました。
私:「Memphis center. Lancer ○○FL240. (メンフィス・センター、ランサー○○、高度24000フィートに到達し、水平飛行に移ります)」
管制官:「○○××△△」
私:「??!!(何もわからん…こんな時こそ!) Say again?」
管制官:「………Say again?」
私:「!?!?(涙) Say again?」
管制官:「………Sorry…I don't understand you.(ごめんなさい。理解できません)」
私:「(涙涙汗汗) Disregard... (さっき私が言ったことは、無視して下さい)」
管制官:「………Roger…(了解)」
こんな状況で訓練がうまく行く筈がありません!私は英語とフライト訓練に全力を傾注しました。入浴時或いはベットの中でも航空機のマニュアルを読み、そこに書いてある事の暗記に努めました。
お陰で、米軍のマニュアル用語を使った英語ではありますが、意思疎通も少しずつうまく行くようになりました。
何とか米国での訓練でパイロットの証であるウイングマークを受け取る事が出来そうな目処がついた時に、新たにもう一つの試練が訪れます。何と、T-38の訓練を修了した後、米国でのAT-38を使用した戦闘操縦課程に試行として進む事になったのです。日本人がこの課程に行ったことはありませんでしたから、これまでの様にわからないところを日本人の先輩に聞くという事もできません。今後の課程での苦労を思うと、不安は増すばかりでした…さらに、この戦闘機操縦課程に行くためには、再度耐G訓練があります。一生懸命頑張って耐G訓練に臨んだその結果は…
訓練時の状況
オペレーター:「2g…3g……」
私:「グレイアウト!(脳に血が不足し、視界から色が消えて白黒の世界になった状態)フックッ・フックッ・フックッ…(下半身とお腹に力を入れ、特殊な呼吸法を始めます。改めて、血液が脳に送られ、視界に色が戻ります)」
オペレーター:「4g…5g…6g…」
私:「フックッ・フックッ…(まずい、また視界から色が消えた…もっと頑張らないと!)フックッ…ダメだ!目の前が見えない!(これは、ブラック・アウトという状態で、意識もあって、目も開いているのですが、血液が足りずに目の前が真っ暗になった状態です。気絶直前です!)」
そして気絶!!オペレーターにより、緊急停止ボタンが押され、けたたましいブザーが鳴り響きます。
オペレーター:「…Kimiya! Kimiya! Are you OK? Are you OK?(亀美也!大丈夫か?)」
十数秒後
私:「(ビクビクッ:痙攣の様に動きながら目を覚ます様子)あれ?うーん…(しばらく脳が完全には働かない状態が続くので、状況が理解出来ず、日本語で話していました…苦笑)」
オペレーター:「Kimiya! Kimiya! Are you OK?(亀美也!大丈夫か?)」
気絶から約30秒後…
私:「(突然状況を理解し)Oh!! I'm sorry! Yeah! I'm alright! I'm so sorry! (ごめんなさい!大丈夫だよ。本当にごめんなさい!)」
オペレーター「That's alright...(問題ないよ…)」
私:「(またダメだった…しかもむち打ちで、首が無茶苦茶痛いし…)」
さすがに、3度気絶すると自信は完全に喪失し、自分が戦闘機パイロットになることは、間違っているのではないかと思うようになります。
他方、この頃私の人生を左右する、一つの映画に出会います。お店で休日に見る映画を探していたところ、宇宙服を着た飛行士と小さな宇宙船が描いてあるパッケージを見つけます。それが「ライト・スタッフ」でした。航空機の性能の限界を試験するテストパイロット。そして、ライト・スタッフ(正しく優れた資質・素養)を持つそのテストパイロット達が、有人宇宙飛行を目指す物語でした。その時初めてテストパイロットという職業を知るとともに「もしかしたら、日本も将来、有人宇宙開発を行う際にテストパイロットが必要になるのではないか?テストパイロットになれば、自衛隊からでも宇宙飛行士になる可能性があるのではないか?」と思うようになります。
アメリカでのAT-38による戦闘機操縦課程は、2ヶ月間でしたが、本当に沢山の事を学びました。まず、最初に学んだのは、航空機の戦闘は物理の応用だという事!この課程で最初に学んだあるチャートに私は非常に興味を持ったのです。それは、航空機の性能が一目でわかるという優れたグラフで、どのスピードで何Gの旋回を行うと旋回率・旋回半径は○○、どの様に運動エネルギーを失っていくかという事が、一目でわかるのです。そして、テストパイロットの仕事の結果、この様なチャートが作られることを知ります。私は、このチャートの魅力にとりつかれ、以降様々な航空機のチャートを比較したり、搭乗する戦闘機のチャートを研究するようになったのです。
また、その課程では、実戦を経験した戦闘機パイロットの講話を聞く機会がありました。初陣の心理状況、敵を見失ってしまった際の焦り、その様な命に危険が迫った状況での着意事項等、本当に貴重な経験を聞くことが出来ました。以降私は心理学にも興味を持つようになり、戦場心理や社会心理学の本を探して読むようになったのです。(戦闘機での戦闘の難しさは、航空機の操縦の難しさだけでは無いのです。通常航空機の操縦は、水平線や滑走路といった止まった対象を基準に操縦を行えば良いだけですが、対戦闘機戦闘では意思を持って自由に動き回る対象(敵機)に対して機動を行います。その間も敵味方双方、物理法則の影響は受けますから物理学と心理学の双方が大切になるのです。)
米国での経験とそこで得た技能は、私の自衛隊での生活や人生を大きく変えるものばかりでした。その中で、一番大きな変化は、これ以降、優れた戦闘機パイロットそしてテストパイロットになる事を目指し、自分自身で困難な道を選ぶようになった事です。
例えば、日本に帰国後、どの戦闘機に乗りたいか、希望を提出する機会がありました。その際に私は自ら「F-15」と書くようになったのです。(当時の選択肢は、F-1、F-4、F-15の3機種でした。当時世界最強と言われていたF-15のパイロットは、学生の中でも人気もありました。)当然、F-15に乗るためには9G(地球の重力加速度の9倍)に耐えなければなりません。しかし、私はこれまで、3度も気絶しています。一見無謀にも思えますが、私がこの様な高Gに耐える為には、下半身の筋力と持久力が必要であることを知り、真剣に駆け足に取り組むようにもなりました。
夢・目的・目標を明確に持ち、現実を見据えその差を埋めるためにどの様な努力をすべきかを、自分で考え、自分で努力を継続するようになったのです!
そして、もう一つの大きな事件が…
実は私は、渡米の1週間前に、ある可愛らしい元気な女性に出会います。渡米前には2回しか会えませんでしたが、文通を重ね米国から手紙でプロポーズしました。プロポーズの手紙を投函してから、返事を受け取るまでの2週間の長い事ったらありません(笑)!この辺りの話は、またの機会ですね。今回はこの辺りで失礼します!
次回は、戦闘機操縦者としての修行!テストパイロットになる最終決心に至る迄の経緯などを詳しく話したいと思います!
手紙でのプロポーズは大成功!帰国後直ぐに結婚しました!「2回会っただけで求婚とは、ギャンブラーだね!」と言われる事も… 手紙でのやり取りがあったとはいえ、全てを知っていた訳ではありませんでしたから、人生の中でもっとも大きな賭けの一つでした!結果ですか?勿論、人生の賭けは大勝利でしたよ(笑)!
※写真の出典はJAXA