宇宙放射線に曝露された細胞の遺伝子、タンパク質の発現解析

代表研究者 平野昌彦(株式会社 東レ リサーチセンター)


図1 定量遺伝子発現解析の流れ

実験の目的
 人類が宇由空間において様々な活動を行なうことのできる時代が到来したが、宇宙では人間をはじめとする生物の遺伝子に対して極めて重大な影響を及ぼす宇宙放射線が照射している。その生物影響についてあらかじめ把握しておくことは、宇宙飛行士の健康を管理するのみならず、スペースシャトルや宇宙ステーションでの生物実験を円滑に進める上での重要な研究課題である。
 本研究では安全性の高い酵母をモデル生物として、有用微生物の宇宙環境下での培養と、宇宙放射線や微小重力を中心とした宇宙環境が生物に与える影響について解析することを目的とする。酵母は人間同様に真核生物であり、宇宙環境において細胞内で起きる現象を分子レベル(遺伝子、タンパク質レベル)で解明することにより、より高次の細胞集合体である人間への影響について基礎的な知識を得ることが可能となる。
〔酵母についての解説]
 酵母は学名をSaccharomycesと言い、「糖を分解する菌」という意味を持つ。多くの酵母の種類が知られているが、本研究では安全性が高くその性質が最も良く調べられている Saccharomyces cerevisiaeを研究材料に選択した。酵母は微生物ではあるが大腸菌のような原核生物とは異なり、基本的には我々人間と同様の真核生物であり、ヒト細胞の原型とも言える。細胞は直径2〜5ミクロンの大きさで、栄養培地を用いると容易に培養が可能である。通常低温下では増殖を停止するが、室温以上になると細胞分裂を始め活発に増殖を行う。古くから人間生活において非常に有用な微生物で、その発酵能力を利用してパンや醤油、味噌、お酒などの製造に利用されている。生命科学の分野では酵母を細胞の代表とみなして様々な研究に用いられており、その結果多くの突然変異体が得られ細胞の性質や生命現象について詳しく調べられている。最近ではゲノム計画の対象ともなり約1200万塩基対ある全DNAがすべて解析されている。

過去の宇宙実験での成果
 従来の宇宙実験によると、プラスミドDNAや大腸菌などの原核生物を用いた宇宙放射線の影響については解析が進んでおり、遺伝子に損傷が起きていること、DNAの修復能力が高まることなどが明らかにされている。しかし、実験条件の制限によりヒト細胞をはじめとする真核生物に対する影響の解析は少ない。

実験の概要
 大腸菌のような原核細胞においては宇宙放射線によりDNA障害を受けた場合、遺伝子修復系の酵素が発現、活性化されDNA上の障害部位を認識して修復することが研究されている。酵母やヒトのような真核細胞にもこのような修復系が存在することは知られているが、どのような遺伝子が関与し、いかなる機構で機能するかは不明である。
 実験では低温状態で細胞増殖を停止した酵母細胞をチューブに封入し、それをバイオスペシメン・ボックスに設置した状態で軌道上に打ち上げる。試料を船内の室温下に移すことにより培養を開始し、併せて宇宙放射線に曝しておく。適当な培養時間後に凍結保存することにより、細胞を固定化する。地上帰還後試料を実験室に持ち帰り、細胞を解凍して遺伝子やタンパク質を調製し、宇宙環境下で発現した遺伝子やタンバタ質について、生化学的、遺伝工学的手法を用いて解析する(図1)。このようして宇宙線被曝した酵母細胞の遺伝子(タンパク質)の発現状況を調べることにより、細胞分裂や遺伝子修復に関与する遺伝子を調査し、そこから宇宙でどのような放射線被曝に対する修復機構が働くかについて研究する。酵母はすでに全ゲノムDNAが解析されているため、未知遺伝子の確認も比較的容易に行なえることが期待できる。

期待される成果とその応用
 本研究では酵母のような人間生活に重要な微生物の宇宙環境での培養について検討を行うとともに、ヒトをはじめとする真核細胞に対する宇宙放射線の影響解析を目的とする。まず前者については、宇宙では限られた資源を有効に使う必要があり、宇宙ステーションのような宇宙閉鎖環境下での有用微生物の利用について、培養法の面から新しい知見を提供できるものと考えている。次に後者については、宇宙飛行士をはじめとする宇宙に出かける人間の健康管理はもとより、今後増加することが予想される宇宙生物実験に供する細胞や小動物に対する放射線の影響についてあらかじめ整理するための基礎データを与えるものである。また、遺伝子修復の研究成果は宇宙に限らず、最近のオゾンホールや原子力発電所での放射線被曝さらには環境汚染物質の生体影響など、地球上での人間の健康問題に対しても貢献が期待できる。


Last Updated : 1998. 5.27